明治に生きた知の巨人

末松謙澄の生きた時代

 末松謙澄の生まれた1855年は、日本が激動の時代を迎える前夜でした。19世紀の後半は、西洋列強が植民地政策をエスカレートさせ、アジアに進出した時期で、日本は、米国をはじめ列強の砲艦外交によって開国や不利益な条約締結を迫られ、徳川幕府はその力の前に屈します。この国家の一大事に際し、幕府に条約破棄や列強との交戦を求める動きや、幕府を助けて国家存亡の危機を乗り切ろうとするものなど、日本列島は外圧と内乱で騒然とした時代を迎えます。やがて幕府への批判は倒幕運動へと先鋭化していきますが、同時に倒幕だけでは、日本再建は不可能であり、日本が先進国と肩を並べるためには、中央集権国家を建設し、欧米列強の先進文明を学ぶ必要があるとの考え方が起こり、ついに徳川15代将軍は、政権の座を明け渡し、明治政府が誕生します。このとき12世紀以来、実に670年を越す長きに渡った武家政治が終わり、日本はサムライの国から一挙に近代国家へと舵を切ることになりました。

 新政府は1868年に発足しますが、そのスローガンは「富国強兵」・「殖産興業」でした。欧米の文化を導入するには高い教育水準が必要になることから、政府は教育立国を目指し、欧米の教育システムを導入、また能力のある学生を官費で欧米に学ばせ、さらに使節団を海外に送り、実際に学校や工場、病院などの施設を視察させ、社会基盤づくりに役立てました。こうして着々と近代化を押し進め、1872年には東京—横浜間で鉄道が開通、また蒸気機関で製糸機械を運転する近代的な国営製糸工場が操業を開始するなど、文明開化(西洋風の文明を暮らしにいき渡らせること)は急速に進んでいきました。

 また文明開化を精神面において押し進める運動が登場します。その代表例は、1873年にグループを結成した「明六社」の知識人たちで、文明開化を単なる衣食住などの物質面に限ることなく、広く世界に学ぶことで、一人一人が自主独立の精神を養い、よって国家の近代化に貢献すべきとの考えを雑誌や著書を通して主張し、啓蒙活動をおこないました。この時謙澄は18歳、東京に出て勉学に励んでいたこの青雲の志を抱く青年は、彼らの啓蒙思想に少なからず啓発されたと考えられます。謙澄が英国へ旅立つのはそれから5年後の1878年2月のことでした。

 以上、新政府誕生寸前から謙澄の英国留学までのおよそ十数年について述べましたが、その後の数十年もやはり日本の歴史の中では類例のない激動期で、日本は欧州各国がかつて経験したことのない速度で変革の時代を通過しました。

明治に生きた知の巨人

末松 謙澄の足跡

 末松謙澄は1855年、豊前国前田村(現行橋市前田)に大庄屋の四男として生まれ、幼少期から地元の儒学者・漢詩人村上仏山の私塾「水哉園」で漢学を学びました。1871年(明治4)、17歳で単身上京、書生として住み込み、学に志しました。同じ境遇にあった、のちの総理大臣高橋是清と交わり、謙澄は漢文を是清は英語をそれぞれ教え合い、外国の新聞を翻訳して東京日日新聞社(現・毎日新聞)へ記事を売り込み、新聞記者となりました。1875年、当時の社長福地桜痴の紹介で伊藤博文に引き合わされ、その論調の確かさと能力を認められ、20歳の若さで中央官僚となりました。
 1877年に西南戦争が始まると、陸軍の山形有朋に引き抜かれて従軍し、西郷隆盛に宛てた降伏勧告状の文案を書きました。その勧告状は情理を尽くしたもので、薩摩軍も感嘆したと言われる名文でした。
1878年、外交官としてイギリスに赴任し、公使館に勤務していましたが、勉学に集中するためにケンブリッジ大学へ入学し、西洋の文化、特に歴史編纂の方法や法律を学んで法学修士号を取得します。
 1885年帰国後は官僚として順調に昇進し、1890年第1回衆議院選挙で当選し、政界入りをします。若くして大日本帝国憲法の起草にも関わり、政治家としては逓信大臣、内務大臣などを歴任し、貴族院議員、枢密顧問官なども務めました。日露戦争の折には英国に派遣され、日本文化や日露戦争の意味などを英文で紹介する著書A Fantasy of Far Japan : Or, Summer Dream Dialogues(邦題『夏の夢・日本の面影』)やThe Risen Sun(邦題『上る旭日』)、The Japanese Character(邦題『日本人の気質』)などを現地で出版し、高い評価を受け、英国やフランスの支援を取り付ける働きかけを行いました。こうした政治家・外交官としての活躍もさることながら、文化・芸術方面に力を注ぎ、大きな足跡を残しています。謙澄は1888年に34歳の若さで文学博士号を取得しますが、彼が生涯に残した著作は約150点に上ります。文学者としての謙澄は漢詩、和歌、翻訳、評論など多岐にわたって健筆をふるっていますが、以下は学術、文化、芸術に残した謙澄の足跡です。

 翻訳家としての業績でいえば、何といっても『源氏物語』をGenji Monogatari, the most celebrated of the classical Japanese Romanceの題名で1882年にロンドンのトルプナー社から刊行したことです。これは、アーサー・ウェーレーが英訳する40年ほど前のことで、もちろん世界で初めての『源氏物語』の英訳出版です。この本は1955年に新たな装丁でチャールズ・タトル・カンパニー(ロンドン)から新書版として再刊行されました。謙澄はまた『源氏物語』刊行の3年前の1879年にGenghis Khan(成吉思汗=ジンギスカン)をロンドンで刊行しています。これは源義経が生き延びて蒙古に渡り、ジンギスカンになったという伝説を英文で紹介したもので、おそらく日本人として初めて英語の書物を外国で刊行したものと考えられます。英文和訳としては1882年に英国の女流作家バーサ・クレイの小説『ドラ・ゾーン』を翻訳、『谷間の姫百合』として出版し、当時のベストセラーになっています。
 英語で出版した前述のA Fantasy of Far Japanは、1906年に『夏の夢・日本の面影』として日本語版が出版されています。

 英国留学中の1879年に漢詩集『明治鐡壁集』を出版します。これは西南戦争従軍中の漢詩をまとめたもので、水哉園出身の謙澄にとってはお家芸と言えます。時期を同じくしてバイロン、シェリーなどの詩の漢詩訳を試みています。1882年ケンブリッジ在学中に出版された『錫磊(=シェリー)雲雀詩(=ひばりのうた)』はパーシー・B・シェリーの詩To a Skylark(雲雀の詩)を漢詩訳したものです。帰国後の1886年には漢詩集『青萍詩存(せいひょうしそん)』を出版しています。
 和歌については、1897年に謙澄は雑誌「太陽」誌上で「文学美術上の意見」を発表、当時の歌壇について「懦弱優柔の風に陥り彫琢刻苦を忌み、自然の発韻を尊ぶと称する一種の和歌風を生じたことは、詩歌を俗極卑極の悪韻文に導く傾向を生じようとしている」と主張。これに対し与謝野鉄幹は読売新聞紙上で「最近5~6年間における和歌界の新傾向を知らないものか、讒妄の言を構えて現今の歌人を侮辱するもの」と反論。謙澄は直ちに読売新聞紙上に「和歌を論じ、兼ねて与謝野君に答ふ」を長期連載。これをまとめて刊行したのが『国歌新論』です。

 評論家としてはまず、1886年刊行の『演劇改良意見』があげられます。1885年帰朝後、福地桜痴、守田勘弥、市川團十郎などを集めて演劇改良会を組織し、翌86年に改良会として意見書を公開します。演劇学者の河竹登志夫(かわたけとしお)によると「彼(謙澄)は演劇改良会の発起人であり、前代未聞と言われた(歌舞伎の)天覧劇のプロデューサーでした。さらにいうなら、彼は開化カーブの中心にあって、政府の演劇感を最も具体的に理論化し、組織化し、運動化した当事者であり、それらを通じて後の演劇の動向に重なモメントをなした人物なのです」、「やや極言すれば近代演劇論ないし近代戯曲、ひいては新劇運動さえ、主としてこの改良運動を契機として、飛躍的にその誕生に近づいたといえるのです。」と高い評価を与えています。
 この他、滞英中の1884年から1年間にわたって、福地桜痴への私信の形式で東京日日新聞社に連載したものを刊行した『歌楽論』や、文章の近代化を提起した『日本文章論』などがあげられます。これらの評論はいずれも1975年に筑摩書房から出版された明治文学全集の中の土方定一編『明治芸術文学論集』ではフェノロサによる『美術真説』や西周による「美妙学説」などと並んで再録されています。

 法学修士としての著作としては、『ユスチニアーヌス帝欽定羅馬法学提要』1913年刊、『ガーイウス羅馬法解説』1915年刊、『ウルピアス羅馬法典』1915年刊などのローマ法の研究書の他、専門書としての『民法詳解』などが出版されています。
また、ギリシャ古典の研究書としてはケンブリッジ在学中の1883年に刊行した『希臘(ギリシャ)古代理学一班』、『希臘古代哲学一班』があります。
 子ども向けの修身教科書、および副読本である『高等小学校修身訓』、『修身女訓』、1890年に発布された教育勅語の解説書である『勅諭修身経階梯』なども出版しています。

 謙澄の残した著作の中で彼が最も力を注いだのが維新の歴史書「防長回天史」です。1897年に毛利家の歴史編輯所総裁に就任以来、英国で学んだ歴史編纂の方法を駆使して広範にデータを収集し、客観的な歴史書を作成しました。1920年に『防長回天史』第6編を刊行し終えるまで23年を費やした力作で、現在もその歴史的な意義は薄れていません。
 若いころの中国古典研究書としてはケンブリッジ在学中の1880年に刊行した『志那古学略史』、1882年『志那古文学略史』などがあり、この他1900年発刊の『維新風雲録』なども挙げられます。

 英国からのお雇い外国人医師ウィリアム・アンダーソン(1842~1900)が1886年に著した初めての本格的な日本美術史The Pictorial Arts of Japanを翻訳し『日本美術全書』として1896年に出版しています。この本は日本で初めて刊行された本格的な日本美術通史として知られていますが、日本人の手による日本美術通史の出版はこれに遅れること5年の『稿本日本帝国美術略史』*まで待たなければなりませんでした。ちなみにウィリアム・アンダーソンは美術に造詣が深いだけでなく、日本美術のコレクターとしても知られ、日本滞在中に3000点にのぼる美術品を購入し、英国に持ち帰りました。それらの美術品は1881年に大英博物館に寄贈され、現在では同館の日本美術コレクションの中核となっていることは、近年オックスフォード大学で博士号を取得された三笠宮彬子女王による研究を通じて改めて注目されています。ウィリアム・アンダーソンの業績はこのように近年見直され、ジャポニズムの研究の対象となっています。『日本美術全書』も「ジャポニズムの系譜」シリーズの著作として復刻・出版されています。
 また、謙澄は、1897年にそれまでの日本青年絵画協会が発展解消してスタートした「日本画会」の会頭に就任しています。「日本画会」のメンバーには梶田半古や荒木十畝など26人が加わり、新たに日本画運動を始めました。この時の副会頭がヨーロッパの印象派画家たちに浮世絵を紹介した美術商林忠正です。フランスにおけるジャポニズムの原点は1867年のパリ万博を起点として、1878年のパリ万博における浮世絵を軸とした日本美術の紹介で波に乗りますが、その折に通訳として渡仏し、その後フランスに留まって美術商として活躍したのが林忠正です。ジャポニズムとして評価されたフランスにおける日本美術の受け入れ状況は、前述の謙澄の著作A Fantasy of Far Japanの中でも取り上げられており、謙澄の日本美術に対する関心の高さがうかがわれます。晩年には『文学上美術上三教思想研究』(1918年刊)といった、日本古来の三教思想上から見た文学、美術の研究書も出版しています。

※帝室博物館編『稿本日本帝国美術略史』 1900年開催のパリ万博時に出版されたフランス語版Histoire del’art du Japonの日本語原稿『帝国美術略史』を1901年に一般向けに縮刷再版したもの。官製の日本美術通史第1号。

「ゆくはしビエンナーレ」では、末松謙澄という人物を、新たな視点と豊かな創造性をもって造形化する作品を募集します。