翻訳家としての業績でいえば、何といっても『源氏物語』をGenji Monogatari, the most celebrated of the classical Japanese Romanceの題名で1882年にロンドンのトルプナー社から刊行したことです。これは、アーサー・ウェーレーが英訳する40年ほど前のことで、もちろん世界で初めての『源氏物語』の英訳出版です。この本は1955年に新たな装丁でチャールズ・タトル・カンパニー(ロンドン)から新書版として再刊行されました。謙澄はまた『源氏物語』刊行の3年前の1879年にGenghis Khan(成吉思汗=ジンギスカン)をロンドンで刊行しています。これは源義経が生き延びて蒙古に渡り、ジンギスカンになったという伝説を英文で紹介したもので、おそらく日本人として初めて英語の書物を外国で刊行したものと考えられます。英文和訳としては1882年に英国の女流作家バーサ・クレイの小説『ドラ・ゾーン』を翻訳、『谷間の姫百合』として出版し、当時のベストセラーになっています。
英語で出版した前述のA Fantasy of Far Japanは、1906年に『夏の夢・日本の面影』として日本語版が出版されています。
英国留学中の1879年に漢詩集『明治鐡壁集』を出版します。これは西南戦争従軍中の漢詩をまとめたもので、水哉園出身の謙澄にとってはお家芸と言えます。時期を同じくしてバイロン、シェリーなどの詩の漢詩訳を試みています。1882年ケンブリッジ在学中に出版された『錫磊(=シェリー)雲雀詩(=ひばりのうた)』はパーシー・B・シェリーの詩To a Skylark(雲雀の詩)を漢詩訳したものです。帰国後の1886年には漢詩集『青萍詩存(せいひょうしそん)』を出版しています。
和歌については、1897年に謙澄は雑誌「太陽」誌上で「文学美術上の意見」を発表、当時の歌壇について「懦弱優柔の風に陥り彫琢刻苦を忌み、自然の発韻を尊ぶと称する一種の和歌風を生じたことは、詩歌を俗極卑極の悪韻文に導く傾向を生じようとしている」と主張。これに対し与謝野鉄幹は読売新聞紙上で「最近5~6年間における和歌界の新傾向を知らないものか、讒妄の言を構えて現今の歌人を侮辱するもの」と反論。謙澄は直ちに読売新聞紙上に「和歌を論じ、兼ねて与謝野君に答ふ」を長期連載。これをまとめて刊行したのが『国歌新論』です。
評論家としてはまず、1886年刊行の『演劇改良意見』があげられます。1885年帰朝後、福地桜痴、守田勘弥、市川團十郎などを集めて演劇改良会を組織し、翌86年に改良会として意見書を公開します。演劇学者の河竹登志夫(かわたけとしお)によると「彼(謙澄)は演劇改良会の発起人であり、前代未聞と言われた(歌舞伎の)天覧劇のプロデューサーでした。さらにいうなら、彼は開化カーブの中心にあって、政府の演劇感を最も具体的に理論化し、組織化し、運動化した当事者であり、それらを通じて後の演劇の動向に重なモメントをなした人物なのです」、「やや極言すれば近代演劇論ないし近代戯曲、ひいては新劇運動さえ、主としてこの改良運動を契機として、飛躍的にその誕生に近づいたといえるのです。」と高い評価を与えています。
この他、滞英中の1884年から1年間にわたって、福地桜痴への私信の形式で東京日日新聞社に連載したものを刊行した『歌楽論』や、文章の近代化を提起した『日本文章論』などがあげられます。これらの評論はいずれも1975年に筑摩書房から出版された明治文学全集の中の土方定一編『明治芸術文学論集』ではフェノロサによる『美術真説』や西周による「美妙学説」などと並んで再録されています。
法学修士としての著作としては、『ユスチニアーヌス帝欽定羅馬法学提要』1913年刊、『ガーイウス羅馬法解説』1915年刊、『ウルピアス羅馬法典』1915年刊などのローマ法の研究書の他、専門書としての『民法詳解』などが出版されています。
また、ギリシャ古典の研究書としてはケンブリッジ在学中の1883年に刊行した『希臘(ギリシャ)古代理学一班』、『希臘古代哲学一班』があります。
子ども向けの修身教科書、および副読本である『高等小学校修身訓』、『修身女訓』、1890年に発布された教育勅語の解説書である『勅諭修身経階梯』なども出版しています。
謙澄の残した著作の中で彼が最も力を注いだのが維新の歴史書「防長回天史」です。1897年に毛利家の歴史編輯所総裁に就任以来、英国で学んだ歴史編纂の方法を駆使して広範にデータを収集し、客観的な歴史書を作成しました。1920年に『防長回天史』第6編を刊行し終えるまで23年を費やした力作で、現在もその歴史的な意義は薄れていません。
若いころの中国古典研究書としてはケンブリッジ在学中の1880年に刊行した『志那古学略史』、1882年『志那古文学略史』などがあり、この他1900年発刊の『維新風雲録』なども挙げられます。
英国からのお雇い外国人医師ウィリアム・アンダーソン(1842~1900)が1886年に著した初めての本格的な日本美術史The Pictorial Arts of Japanを翻訳し『日本美術全書』として1896年に出版しています。この本は日本で初めて刊行された本格的な日本美術通史として知られていますが、日本人の手による日本美術通史の出版はこれに遅れること5年の『稿本日本帝国美術略史』*まで待たなければなりませんでした。ちなみにウィリアム・アンダーソンは美術に造詣が深いだけでなく、日本美術のコレクターとしても知られ、日本滞在中に3000点にのぼる美術品を購入し、英国に持ち帰りました。それらの美術品は1881年に大英博物館に寄贈され、現在では同館の日本美術コレクションの中核となっていることは、近年オックスフォード大学で博士号を取得された三笠宮彬子女王による研究を通じて改めて注目されています。ウィリアム・アンダーソンの業績はこのように近年見直され、ジャポニズムの研究の対象となっています。『日本美術全書』も「ジャポニズムの系譜」シリーズの著作として復刻・出版されています。
また、謙澄は、1897年にそれまでの日本青年絵画協会が発展解消してスタートした「日本画会」の会頭に就任しています。「日本画会」のメンバーには梶田半古や荒木十畝など26人が加わり、新たに日本画運動を始めました。この時の副会頭がヨーロッパの印象派画家たちに浮世絵を紹介した美術商林忠正です。フランスにおけるジャポニズムの原点は1867年のパリ万博を起点として、1878年のパリ万博における浮世絵を軸とした日本美術の紹介で波に乗りますが、その折に通訳として渡仏し、その後フランスに留まって美術商として活躍したのが林忠正です。ジャポニズムとして評価されたフランスにおける日本美術の受け入れ状況は、前述の謙澄の著作A Fantasy of Far Japanの中でも取り上げられており、謙澄の日本美術に対する関心の高さがうかがわれます。晩年には『文学上美術上三教思想研究』(1918年刊)といった、日本古来の三教思想上から見た文学、美術の研究書も出版しています。
※帝室博物館編『稿本日本帝国美術略史』 1900年開催のパリ万博時に出版されたフランス語版Histoire del’art du Japonの日本語原稿『帝国美術略史』を1901年に一般向けに縮刷再版したもの。官製の日本美術通史第1号。